多田満中 翻刻

上巻

  
 ○清濁は原典のままとした。
 ○句読点、鍵括弧は適宜補った。
 ○適宜、段落に分けた。
 ○人名、地名のうち主なものに関しては、初出の際に( )つきで漢字をあてた。
 ○挿絵の解説は【 】で示した。
 ○誤字と思われる箇所はママとし、( )で正字を記した。
 ○踊り字(「く」の倍角)は(※く)と表した。

 それ、ひそかにおもむみるに、おほつてほかなきは、てんのみちなり。 のせてすつる事なきは、ちのとくなり。はしめきよくしてすめるものは、のほつて天と成、おもくしてにこれる物は、くたつて地となる。 ちうわうは、にんたり。これよりして、くんしのみちをこなはるゝものか。

 をよそにんわう五十六代のみかとをは、せいわ天わうと申たてまつる。王子六人おはします。 やうせいゐん、さたひてのしんわう、さたもとのしんわう。かのさたもとのしんわうは、ひはひきにておはします。 かつらのさとにすみたまへは、かつらのしんわうとも申。さたひらのしんわう、さたよしのしんわう、さたすみのしんわうとて、きやうたい六人おはします。

 なかにも、たい六さたすみのしんわうの御子をは、六そんわうと申。六そんわうの御子をは、たゝのまんちう(多田満中)と申たてまつる。 そのころ、みなもとのしやうをはしめてたまはらせ給ひ、かうつけのかみと申たてまつりて、ゆみやをとつて天下にならふ人なかりけり。 ちやくしつのかみらいくわう、二なんやまとのかみよりのふ、三なんたゝのほうけんとて、ひえいさんはちふゐんをはしめてたてられし人なり。
 すこふるてうかの御まほりとし、てうてきをほろほし、くにをしたかへたまふ事は、ふるあめのこくとをうるほふすに似たり。 しやうりのくすりをもつて、そせうのやまいをいやし、けんはうのともしひをかゝけ、しうたんのやみをてらす。しかるあひた、人うやまふ事かきりなし。

絵1

 こゝに、まんちう、おほしめしたち給ふ事あり。
「それ、しやうしのならひ、うゐてんへんのことはりは、みなゆめまほろしのよの中也。此しやはのちやうみやうをおもへは、わつかに六十ねん。下天のけう、 らうせうふしやうのゆめなり。ゆくすゑとても、ゆめならさらんや。せうしゆせんねんのみとりも、しものゝちのゆめとつゐにさむへし。 いかにいはんや、きんくわ一日のさかへも、つゆのまの身たもちかたし。 あしたにはこうかん有て、せいろにほこるといへと、ゆふへにははつこつと成て、かうけむにくちぬ。よひにはらうけつをもてあそふといへと、 あかつきはへつりのくもにかくれり。わつかなるよの中に、何に心をとゝめてか、いたつらにあかしくらすらん。 われ、こんしやうにて、かくゆみやをとつて人にをそれらるゝといふとも、まことのみちにをもむかんするときは、 すせんにんのけんそくとも、一人もつきしたかふへからす。たゝむしやうのせつきにをつたてられ、あはうらせつにかしやくせられむ事のくちおしさよ。 ふつほうにちかつき、三ほうをうやまはんとおもへは、ゆみやのみちゆるくなるへし。」
とおほしめされけれとも、おもひたち給ふ、その御こゝろのすてかたくて、あるたつとき上人のあんしつに入て、のたまひけるは、
「われらこときのしゆしやうとうは、何としてこしやうをたすかり、こくらくにわうしやうすへく候や。」
と、たつねたまへは、上人きこしめされて、

【上人のもとを訪ねる満中】

「かしこくも御たつね候ものかな。もつともしゆつけのしるしには、さやうの事こそうけたまはりたく候へ。 それ、きんめいてんわうの御代より、ふつほうわかてうにわたり、しやうくうたいし、もりやをうちしたかへしより此かた、 ふつほうはんしやうのいまにをひて、そうきやうたにことなり、こゝにほけきやうと申て、八ちくのきんもむの候か、無二無三のほうもんにて候。 かれにちくうし、けちゑんし給ふへし。」
とおほせけれは、まんちうきこしめされて、
「さて、ほつけめうてんのほんしやくをは、ほとけは何ととかせたまひ候らん。」
とたつねたまへは、上人きこしめされて、
「それ、ほつけは、とんちんちの三とくより、われらしゆしやうのふつしやうは、まさにしゆつしやうすと見えたり。 ちよくすいうていのなかよりも、のりのはちすを開出す。ちむらうまうさうは、むさのかくたい也。 是によつて、一代八万のはなは、五しのはるにひらき、三代そくせの月は、はつけふのあきにあきらかなり。 きうせん、たうちやうにたつさはり、せつにんたう、くわつにんけん、みな一ねんのうち也『ほんなうそくほたいしん、しやうしそくねはん』ととけり。 ゐんぬちも、みなこれ、むしやうのめうきやう也。しやうともえとも、ほんらいくしやく成とかや。 さても此御きやうをしやくそん四十よねんのせつきやうのゝち、八かねんにしむしつのさうをときあらはしたまひて候。 この御きやうに『けんせあんをん、こしやうせんしよ』ととき、又は『にやくうもんほうしや、無一ふしやうふつ』とのへたり。 いちけもんほうのくとくは、五はらみつのきやうにもすくれ、五きやくのせうたつは、たうらいさふつのきへつをうけ、 八さいのりう女もなんはうむくせかいのしやうたうをとけたり。いかにいはんや、ゆみやをとりたまふ事もわたくしならす。 わうほう、ふつほうのけこ、国家をまほり、たみをはこくみたまはんゆへなり。一せつ多しやうのくとくあるへし。 ほとけも、あくまかうふくしたまふきやうあり。さいそくの身にてましますとも、御心のむけやうにこそより候はんすれ。 かのてんちくのちやうみやうこし、わかてうのしやうとくたいしも、さいけにまし(※く)なから、ふつほうしゆきやうしたまひぬ。 十あく五きやくのともからも、しゆゆのねんによつて、むしゆこうのさいしやうをせうめつすへき事は、うたかひなく候なり、まんちう。」
とこそおほせけれ。

 まんちうきこしめされ、
「あら有かたや候。そのきにて候はゝ、ほけきやうを一ふてんしゆ申たく候。たとへは、くとんに候とも、つねはまいるへく候。一しつゝなりとも御さつけ候へ。」
とおほせけれは、上人きこしめされて、
「しさいにをよはす、さつけ申へし。さても、此御きやうをしやくそんときたまひしときは、さうもくこくとしつかいしやうふつと見えたり。 そくしんしやうふつをとけたまふまてこそなくとも、すいりきえんせつ申へし。」
とて、ほとなく一ふてんしゆしたまひけるとかや。
絵2

【上人より法華経を伝授される満中】

絵3  まんちう、心におほしめす。
「それ、人の一大事はこしやうなり。すゑの子を一人しゆつけになし、われらかこしやうをとはれはや」
とおほしめし、ひちよ御せん(美女御前)と申て、十二さいになりたまふわかきみをめして、おほせけるは、
「なんち、てらへのほり、かくもんし、ほうしになり、われらかこしやうをとふらひてたへ。」
とおほせけれは、ひちよ御前はきこしめし、
「あら何ともなや。人のうへにたにも出家のすかたは、心にそますおもひしに、 いまさらわかみにあたつてうけける事の、むようさよ」
とは、おほしめされけれ共、ちゝのおほせにてあるあひた、ちからをよはす、りやうしやう申されけれは、やかてなかやまといふてらへのほせたまふ。
 まんちう、かさねておほせけるは、
「なんちてらへのほりせは、かくもんさいしよにほけきやうをよくよみおほえ、そのほかよろつのきりをしるへし。」
と、御やくそくありけれは、りやうしやう申、てらへはのほらせたまへとも、御きやうあそはさん事は、なか(※く)おもひもよらす、 むりやうの木のかはをはきあつめ、よろつのかつらをもつてくさり、よろひ、はらまきなんとゝいひ、木なきなた、木たちをつくつて、 多ほうのちこをかりもよほし、とひこえはねこえ、はやわさ、すまひ、ちからわさ、かゝるふけいのまねならては、一かうよるひる、 たゝてんくのやとりのことくなり。ししやうとうしゆくけうくんすれは、けつくかへつてちやうちやくす。 てら一はんのあくきやうは、此わかきみ一人のちやうきやうなりとそきこえける。

【寺で武芸のまねごとをする美女御前】

 まんちう、此事をゆめにもおほしめしよらす、
「いまははや、ひちよ御せん、きやうをはよくよみおほえてそ有らん。よひくたし、御きやうよませ、ちやうもんせん。」
とおほせあつて、ふちはらのなかつかさなかみつ(中務仲光)と申さふらひをつかひにて、ひちよ御せんをよひくたしたまふ。
 ちこ、おもひたまひけるは、
「あらなにともなや。此二三かねん、てらには候へとも、きやうの一しもならはす。 さとにくたるものならは、ちしやう、「ほけきやうよめ」とおほせあるへし。いかゝはせん」
とおほしめすか、
「いまさらならふにをよはす」
とて、たゝのさとにくたりたまふ。

 まんちう、やかて御たいめん有て、
「めつらしや。ひちよ御せんは、ひさしく見申さねは、ねんなふせいしん候や。さても、やくそく申せし御きやうをは、よみおほえてそあるらん。 それ(※く)よませ申せ。ちやうもむせん。」
とおほせけれは、
「うけたまはる。」
と申て、したんのふつくえに、八ちくのこんていの御きやうをならへ、ちこのまへにそをかれける。
 まんちう御らんして、
「かねて申せし事は、これなり。あそはせ、ちやうもんせむ。」
とおほせけれとも、とかくの御返事もしたまはす。まんちう御らんして、
「なふ、なにとてきやうをはあそはさぬそ。せひ一しもよみそんし、それかしうらみたまふな。」
とひさの上にたちぬきかけて、
「はや(※く)よめ。」
とそ、おほせける。

 いたはしや、ひちよ御前は、つゐに一しもならはぬきやうの事なれは、ひほとくまてもましまさす、せきめんしてこそおはしけれ。
 まんちう御らんして、
「たのむしるしのなきやつをは、かくこそはからふへけれ。」
とて、ぬきうちに、ちやうとうちたまへは、此ほと、てらにてならはせたまひたるはやわさのしるしに、つくえのうへなる御きやう一くはん、 をつとつて、ちやうりやうか一くはんのしよとなつけ、しつとゝあはせ、ゐなからうしろへひらりととひ、いなつま、てむひ、ふゆう、かけろふ、 とふとりなんとのことくに、はや、ちらりとうせて見えたまはす。
 まんちう、おほきに御はらをたてさせ給ひ、なかみつをめしておほせけるは、
「なんち、此たちにて、ひちよかくひうつてまいらせよ。」
とて、やかて御ちうたいの御はかせを出させ給ふ。なかみつは、あまりの御たうりしこくにて御さあるあひた、とかくの御返事を申さすし、かうへを地につけ、せきめんす。
 まんちう御らんして、
「いかさま、なんちはいきにをよふか。せひうつてまいらせすは、こんしやうこしやうふちうのものにてあるへし。」
とおほせけれは、
「かさねてちたいのきあり、あしかりなん」
とそんし、御はかせを給て、わかしゆくしよにまかりかへる。

絵4

【満中の太刀を経典で受け止める美女御前】

絵5  あらいたはしや、ひちよ御前は、なかみつかもんのうちへにけいり、よにめんほくなけなるふせいにて、たゝすみたまふところへまかりかへる。 ひたゝれのそてにすかりつき給ひ、
「かねてより、御うちにおほきさふらひのなかに、とりわきなんちをこそたのもしくおもひつれ。」
とて、さめ(※く)となきたまへは、まさに、うつてにはつかはされけれとも、あまりの御いたはしさに、
「なふ、何とてそれに御さ候そ。こなたへ御いて候へ。」
とて、うちへいれたてまつりて、なかみつ申。
「さても、御うちにおほきさふらひの中に、たれにもおほせつけられすし、わかきみのうつてをなにかしにたまはる事は、 ひとへに御いのちのたすかりたまふへきゆへなり。たとひ、それかしかくひをはうたれ申とも、御いのちにをひては、たすけ申へし。御心やすくおほしめせ。」
と申ところへ、まんちうの御かたよりも、かさねてつかひをたて、
「なにとて、ひちよかくひをそなはりたるそ。とくうつてまいらせよ」
との、 かさね(※く)の御つかひたつ。
 なかみつうけたまはりて、
「あら何ともなや。さては、御いのちにかはり申、それかしはらをきりたりとも、わかきみの御いのちたすけたまふ事あらし。 さあらんときは、何にもむやくたるへし。さて何とすへきそや。 まさにうてとおほせらるゝは三代さうおんのしうきみ、又、たすけよとおほせらるゝもしうきみにておはします。とやせん、かくやあらまし」
と、 かきあつめたるもしほくさ、しんたいこゝにきはまりて、せひをもさらにわきまへす。

「いや(※く)、こゝに思ひいたしたる事あり。わかきみと御とうねんにまいりあふ子、一人あり。 名をは、かうしゆ丸(幸寿丸)といふ。九つのとしよりてらへのほせ、ことし十五にまかりなる。 わかきみと御とうねんにまいりあふこそ、さいはいなれ。かのものをよひくたし、御いのちにかへはや」
とこそおもはれけれ。

【仲光のもとに逃げ込む美女御前】

 そうして、此ちこの心さし、よににうなんにして、しんひやうなりけれは、ししやう、とうしゆくも、おほく有ちこの中にも、一大事とこそおもはれけれ。 おほかた、すかたしんしやうにして、やうりうよりもたをやかなり。はたへは、はくせつのことし。あたか、十五夜の月のふせい、一たひゑめは、もゝのこひあり。 かくもんよにすくれ、一しを千しにさとる。ならひなきちこかくしやうの名を得たり。ことには、しいかくわけんのみちにちやうし、しゆえんゆうけう、 人にすくれ、しかるあひた、一しのそうきやう、あるひは心をたかねの月にかけ、思ひをしかのうらなみによせさりけるはなかりけり。 一しゆの花をみては、みな我家のひかりをあらそふことく也。をよそ心さしは、さんかくのことく、きは、わうこんよりもなをかたし。 はん夜のかねのこゑ、あかつきのわかれをうらむ。一たんのはうしわ、かれもこれもたゝおなし。いつも心にしをつくり、 うたをゑいして、かんきよに日月をくりたまひけり。
 かゝるゆうなるちこのかたへ、おやきしよくして、むかひをのほせ、
「ちと申たんすへきしさいの候。いそきくたられ候へ。」
といへは、かうしゆきひて、この六七かねんかあひた、ちゝはゝにかうかん申さす、内々こひしくおもふところへ、 むかへのきたりたりけれは、うれしさたくひなふして、ししやう、とうしゆくにいとまをこひ、やかてさとにくたる。

 ちゝなかみつは、もんにたちてまつ。ちこ、ちゝを見つけ、うれしけにてむまよりおり、あゆみよりけるすかた、 こつから、れいきしたるふせい、おとなしやかなりけり。ちゝ、つく(※く)と是をみて、
「あらむさんや。かほとまてそたてをきたるしるしもなく、たゝいま、わかてにかけむ事のふひんさよ」
とおもへは、しのひのなみたせきあへす。

「なんちを、たゝいまよひくたす事、へちのしさいならす。 そのゆへは、主君ひちよ御せん、まんちうのきよいにそむかせたまひ、なにかしにうつてをたまはるところに、 又、わかきみのたのみてにけいり給へは、何としてなさけなくうちたてまつらんとそんする。 それ、きをおもくして、命をかろくし、さかひにのそんて、かはねをとちうにすつる事は、くんしんのほう。 きみはしんをつかふるに、おんをもつてし、しん、きみにつかへたてまつるに、きをまほつて身をおしまさるは、ちうしんのほうなり。 おんにそくするしんか、つゐに一とは、主君の御いのちにかはるへきもの也。おやにかうある子は、身をすてゝ、ほたいをとふらふといふ事あり。 なんち此あひた、てらにてかくもんのしるしに、さためて此むねをはよく存知つらん。めんほくなき申事なれとも、 あはれ此わかきみの御いのちにかはり申てたへかしとおもひて、さてよひくたしたるそ。」
といへは、かうしゆきゝて、につことわらひ、
「うれしくもうけたまはり候ものかな。ゆみとりの子とむまれ候よりしては、しうきみの御いのちにかはるへき事をは、おもひまうけて候。 ひとつには、御しうの御いのちにかはり申、又は、おやの御めいにしたかはんする事こそ、さいはいにて候へ。 はや(※く)くひをめされ、ひちよこせんをたすけまいらせたまへ。身のいのちにをゐては、つゆちりほともおしみ申まし。 それ、ゑんおふのふすまをかさねても、しんたいのやふれさる間なり。きくわくのちきりをいたすも、つゆのいのちのきえさるほと、 いつくのさと人か、ひとりとしてのこりとゝまり候へき。たゝとくしやうをかへむこそ、身のよろこひにて候へ。さりなから、すこしの御いとまをたまはり候へ。はゝこにさいこのたいめん申たく候。」
といへは、なかみつきゝて、
「あら、ふひんの申事や。いそきこえ、たいめんあれ。かまへてこの事をはゝにしらせてたふな。」
といへは、その時、かうしゆはらをたて、
「さては、子なからもみれんしこくのものとおほしめし、御みかきり候か。そこのほとは、御心やすくおほしめせ。」
と、さもけなけに申なし、はゝの御前にまいり、はゝを見たてまつりて、やかてなみたをなかす。

絵6

【幸寿丸に身代わりを頼む仲光】

 はゝ御らんして、
「めつらしのかうしゆや。この六七かねんかあひた、てらにゐ、たま(※く)くたりけれは、さこそよろこふへきとおもふ身か、われを見てなく事よ。」
とおほせけれは、そのとき、かうしゆ、おつるなみたをおさへ、とりあへす申す。
「さん候。かのもろこしのかんわう、ここくをせめられしとき、かうせいしやうくんを大しやうとし、ひやくまんきをそつし、 ここくへつかはされけるに、かせんすてに十二かねんへて、つゐにいくさにうちかつて、古郷へひいてかへるとき、とくしやうのみやこをよそに見、 はゝのましますところへゆき、はゝを見たてまつりて、やかてなみたをなかす。はゝ御らんして、『これほといくさにうちかつて、 よろこひにてのほる人の、なにのうれへの有てなき給ふそ』とおほせけれは、しやうくんきこしめされて、 『さん候。ここくへまかりむかひしときは、しろき御くしも見えさせたまはさりしか、いまいくほともなきあひたに、 御くししろたへに見えさせたまひて候ほとに、それをなき候』とおほせけれは、しやうくんのはゝきこしめし、 『身につもるとし月を、ぬしたにもおもはぬに、おやのよはひのかたふき、すゑのちかくなる事を見てなく事よ』と、 あはれにもうれしくもおもはれけると、あるふみにみえて候を、いまさらおもひあはされて候そや。 九つのとし、てらへまかりのほりしときは、くろくわたらせたまひし御くしの、ことし十五にまかりなり、 くたりて見たてまつれは、御くしやう(※く)しろたへにみえさせたまひ候ほとに、いまいくほとか見まいらせんとかなしくて、ふかくのなみたをなかすなり。」
といつはり申たりけれは、

絵7  はゝはまことゝおほしめし、
「ふひんのものゝ申事や。けに子にてなくは、なにものかはゝかかみのしろくなるをはかなしむへき。ましてなからんのちのよをとはれん事のうれしや。」
と、たゝいまさきにたちたまはん事をはしろしめされすし、よにたのもしくおもはれけるはゝの心そ、あはれなる。
「これにしはらく候て、御物かたり申たくは候へ共、承れは、主君ひちよこせん、まんちうのきよいにそむかせたまひ、これに御さのよしをうけたまはる。ちとまいり御めにかゝり、やかてまいり申さん。」
といつはり、はゝの御前をまかりたつ。

 これをさいことおもはれける、かうしゆの心そあはれなる。

【母に最後の対面をする幸寿丸】

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