多田満中 現代語訳

下巻

 その後、幸寿丸は一人部屋に入ってお経を読み、念仏を唱え、辞世の歌を詠みました。
    君がため命にかはる後の世の闇をば照らせ山の端の月
  (主君のため身代わりとなる私の死後の暗闇を明るく照らしておくれ、山の端にかかっている月よ。)
 このように書き、
「師匠や他の僧、同輩たちそれぞれに形見の手紙を残したいけれども、それは叶わないことだ」
と思って、ただ一通、偽りの手紙を書きました。
「このたび里へ退出いたしましたのは、他でもございません。主君の美女御前がお父君の御意にそむかれ、 お父君の手にかかって命を落とされましたので、その菩提をお弔いするようにと我が父からの仰せでございました。 けれども、若君のご最期の姿を拝見いたしまして、いてもたってもいられず、父にも母にも知らせずに、 若君の遺骨を首にかけて高野山に登り埋骨し、供養をすることにいたしました。三年たちましたら必ず参上して、お目にかかりたく存じます。師匠ほか皆様へ。幸寿丸より。」
 髪の毛を少し抜いて手紙に添えました。自分の書いた手紙ではありますが、名残惜しさといったらありません。

<幸寿丸の最期>

 幸寿丸は部屋を出て、父の前に参上します。
「ただいま母上に最期のご挨拶をしてまいりました。今はもう思い残すことはございません。ただ、あちらの部屋に手紙が一通ございます。 それを長年住み慣れたお寺へお届けくださいませ。」
 それだけを父に伝えると、中庭に自分で敷き物を敷き、髪を高く巻き上げ、西に向かって手を合わせ念仏を唱え始めました。 まったく何の執着もないかのように、すがすがしいありさまで、取り乱す様子はありません。
 父の仲光は太刀を持って近寄りましたが、涙で目がくもり、心が動揺して、どこに太刀を振り下ろせばよいか分からないほどです。 それでも何とか思い切って太刀を振り下ろすと、幸寿丸の首は前に落ちました。

絵1  以前から覚悟していたことです。今さら嘆いても仕方がありません。若君の直垂を取り出して幸寿丸の首を包み、満中のもとに参上しました。
「ご命令には背きがたく、おいたわしながら美女御前のお命を頂戴つかまつりました。今はもう望みを達せられたのですから、お怒りをお静めください。非情な我が君のご処置……。」
 言い終わらないうちに首を御前に差し出し、袖を顔に押し当てましたので、満中も見るにたえない様子で、
「よくぞやり遂げた。しかしながら、首は汝に取らせるぞ。よくよく供養して、菩提を弔ってやってくれ。」
と言って、屋敷の奥へ入ってしまいました。

【満中に首を差し出す仲光】

<幸寿丸の母の嘆き>

 その後、仲光は首を持って自らの家に帰ると、女房を呼び出します。真相を詳しく語って聞かせ、幸寿丸の首を見せますと、女房はそのまま気を失ってしまいました。
 幸寿丸のしとやかで若く美しい顔、花にねたまれるばかりの姿もあっけなく散り、あでやかな美しい眉や月にねたまれた容貌も、今は見る影もありません。 縁あって出会った者が別れる運命にあるのはこの世の人間の宿命でありますし、人の生き死にが繰り返されるのも道理ではございますが、 このような悲しい出来事は幸寿丸のことで終わりにしたいものです。
「さきほど幸寿丸が寺から帰ってきて、わたくしを見て泣くのを不思議に思っておりましたが、こういう訳だったのですね。 異国のことを語り自分自身を慰めていたとは、夢にも知りませんでした。主君の身代わりになることをどうしてわたくしがとめたりいたしましょう。 事情を話してくだされば、あなたと共に介錯して幸寿丸の最期を見届けましたものを……。そうすれば、これほど悲しい思いはしなかったでしょう。 お恨みいたします、仲光殿。」
 そう言うと女房は首に抱きつき、突っ伏して泣き続けました。

絵2

【幸寿丸の首に抱きつき泣き伏す仲光の女房】

 ちょうどその時、美女御前は障子ごしに幸寿丸の最期の話を聞いていました。美女御前は、障子をさっと開けると、
「今、何と申した、夫婦の者よ。幸寿丸の首を打つぐらいなら、どうしてこの美女の首を打たなかったか。幸寿丸が命を落とし、 そのかわりに生きながらえたとて、誰にも顔向けできぬものを。」
と、言うやいなや、自害しようとします。仲光夫婦はあわてて駆け寄り、美女御前の刀を奪い取って言いました。
「今日からは今までの怠惰なお心をお捨てになり、学問をしっかりなさって、幸寿丸の菩提をねんごろに弔ってくださいまし。早く早く、お姿を隠してくださいませ。」

 仲光は美女御前のお供をし、人目を避けるために夜の闇に紛れて多田の里を出発しました。 都に着きましたが、ここでは人目も多いため、坂本の十禅師(じゅうぜんじ)へと向かいました。十禅師に着くと、仲光は言いました。
「十禅師権現の思し召しにしたがって、比叡山のどのような高僧にでも師事なさり、お弟子となってよくよく学問をなさいませ。 いいですか若君、お聞きください。天竺にいるという獅子は獣の中の王でございます。 この獅子は、一年のうちに三匹の子を産みますが、生まれて三日目に大きな岩を落とし、生き残ったものだけを我が子として育てます。 このような獣であっても、我が子を試す習いがございます。満仲殿が若君をご勘当なさったことをお恨みしてはなりませんぞ。 来世には必ず縁が結ばれるべき理由があってのことでございますから。それではお暇を申し上げます、若君。」
「やや、もう帰るのか、仲光よ。命あるうちに今一度めぐり会えようか。名残惜しや。」
 美女御前はいつまでも仲光を見送り、仲光も振り返り振り返りしながら多田の里へと帰っていきました。

絵3  仲光は我が家に帰ってくると、女房を呼んで、
「まことに人の命は捨てがたいものじゃ。幸寿丸の最期の時、何としても一緒に死んでしまいたいものだと百度も千度も思ったが、 若君をご無事にお逃がしいたすため、そ知らぬ顔をして生きながらえたのじゃ。今はもうこの世に思い残すこともない。さらば。」
と言うが早いか、腰の刀を抜いて切腹しようとします。女房は刀にすがりついて、
「落ち着いてくださいませ、仲光殿。わたくしとて思いは同じでございます。まずはわたくしを斬ってから切腹なさいませ。 けれども、よもやお忘れではございますまい。わたくしたち夫婦の亡き後、幸寿丸が若君の身代わりとなったことが殿のお耳に入ったらどうなさいます。 おかわいそうに、若君が深い山奥に隠れていらっしゃるのを探し出されるかもしれません。そうなれば、草葉の陰で幸寿丸もさぞや嘆くことでしょう。 とすれば仲光殿、自害を思いとどまって、わたくしたち夫婦一緒に一心に念仏を唱え、幸寿丸の菩提を弔おうではありませんか。 このように申せば、自らの命を惜しんでいるかのように思われるかもしれませんが、とにかく、よきようにお計らいくださいませ。」
とかき口説きます。仲光ももっともなことだと納得して、自害を思いとどまりました。

 と、ここまでは津の国多田の里での出来事でございます。

【仲光の切腹を止める女房】

<美女御前、源信の弟子となり、円覚と名乗る>

 一方、十禅師の美女御前は、右も左も分からず、誰について学問をしたらよいやら、途方に暮れておりました。 ところがこれも十禅師権現のお導きでしょうか、かの有名な恵心僧都(えしんそうず)が十禅師に参詣なさるところに行き会いました。僧都は美女御前をご覧になって、
「これは何と気品のある美しい若君じゃ。この辺りでは見かけぬ顔じゃが、どこから来られた、どういった身分の人であられるか。」
とお尋ねになります。美女御前は、
「はい、幼い時に両親に先立たれたみなしごにございます。」
と答えました。
「それならば、あなたがどのような身分の者であってもよろしい。ともに参られよ。」
 恵心僧都は、同宿の僧たちに美女御前の手を引かせ、自分の僧坊へ連れて行きました。

 こうして年月がたち、その間、美女御前は熱心に学問に励み十九歳になりました。 ある時、美女御前は正法念処経(しょうぼうねんじょきょう)というお経を読みながら、うつむいて涙を流しております。これを見た僧都は不思議に思って尋ねました。

「あきれたこと。稚児よ、どうして泣くのじゃ。」
「はい。このお経を読んでいますと、親不孝な子どもは阿鼻地獄に落ちると書いてありますので、身につまされて泣いております。」
「おかしなことを申すものじゃ。そなたは幼い時に両親に先立たれたと申しておったではないか。それが今さら親不孝とは、どういうことじゃ。」
「今となってはもう隠し立てはいたしますまい。私は学問もせず、怠けてばかりおりましたため、親から勘当された者でございます。」
「では、親はどういった人でおられるか。」
「津の国多田の里におります満中と申す者にございます。」
「やはり。以前から並の身分の者とは違うとお姿を拝見しておりましたが、さてはかの有名な満中殿のご子息であらせられましたか。 今まで存じ上げぬとは愚僧の不覚でござった。それならば、ますます学問に励みなされ。ご勘当のことは、この源信がともに参って許しを請いましょう。」

 美女御前は十九歳で髪を下ろして出家し、恵心院の円覚(えんがく)と名づけられました。 僧都のもとで天台の教えを熱心に学んだ甲斐あって、ついに天台宗の奥義を究めるまでになりました。 そして二十五歳の時に、師匠の恵心僧都のお供をして、多田の里に向かいました。

絵4

【髪を下ろし出家する美女御前】

<源信、円覚を伴い多田に下向する>

 中国前漢の朱買臣は、錦の袴を着てこそ故郷の人に顔向けできると言いましたが、今の美女御前は、錦にもまさる墨染めの衣をまとって故郷へ帰ります。 多田の里に着くと、まずは仲光のところへやって来て、ひそかに案内を頼みます。仲光は美女御前の姿を見て、あまりの嬉しさに言葉もありません。 しばらくして、流れる涙を押しとどめながら、
「なんと立派な若君のお姿でありましょう。それにつけても思い出されるのは、幸寿丸のこと。満中殿もかねてより若君が僧侶になられることを望んでおられた。 必ずやご対面なさるであろう。さあ、すぐに参りましょう。」
と言って、満中のもとへ参上しました。美女御前のことについては何も言わずに、
「比叡山で名高い恵心僧都が、殿にご対面のためにただ今お越しになりました。」
とだけ申し上げます。これを聞いて満中は驚き、
「なんと。あの恵心僧都が御自らおいでとな。思いがけないこともあるものじゃ。それ、早う早う、こちらへお通しせよ。」
と僧都を招き入れます。
 満中はすぐに僧都と対面して、
「初対面でこのようなことをうかがうのは恐縮ですが、我々のような大悪行の俗人は、どのようにして死後の安楽を得、極楽に往生したらよいのでしょうか。」
と尋ねました。
「そもそも仏への信仰心をおこす前は、生も死も同じことで、成仏への近道にはなりません。人に教え導かれるのではなく、自らの力で悟りを得ることが大切です。 経典の中のただ一句でも聞いたその功徳は、はかりしれないものと申します。弓矢をとって戦われていても、合戦の最中にこのことを思い出し、 ひたすらに仏の教えを守ろうという原点に立ち帰れば、もろもろの罪は草に置く露のように消滅してしまいます。罪障が消えれば、即身成仏することは疑いありません。」
 満中はこれを聞いて、
「それでは、弓矢をとって戦をしていても、一心に願えば極楽に往生することができるのだ。」
と喜びました。

絵5  折しも頃は九月の十三夜、月は皓々と輝いておりました。遠くに聞こえる鹿の声もものさびしく思われて、 草むらの虫もまるで自分の存在を人に知らせるかのように鳴いています。そんな趣深い夜に、昔の美女御前、今の円覚は貴い声で法華経の一句を高らかと唱えました。 その声は天まで届くかのようです。貴いなどという言葉ではまだ足りないほどです。聞く人はみな涙を流しています。 満中も感動して嬉し泣きをしています。恵心僧都にもうしばらく逗留してくれるように頼みますが、僧都は、
「私には日を定めての勤行の都合があります。明日、帰山いたします。」
と言います。
「それならばあのお弟子の御僧に一週間とどまっていただきたく存じます。」
「あの者は幼い時から常にそばに置いている弟子でございますが、お経を聴聞なさるためならば、一週間だけ残していきましょう。 ご用がお済みになったら、比叡山へ送り返していただきたい。」
 僧都は、勘当のことは一言も口に出さず、翌日、山へ帰っていきました。

【満中のもとを訪ねる恵心僧都と美女御前】

 円覚は一人とどまって、七日間お経を唱えます。満中はその様子を見て、
「さて、あなた様はどのようなお方でいらっしゃいますか。それがしもあなた様と同年ほどの子どもを持っておりましたが、学問もせず怠けてばかりおりましたので、家来に申しつけて首を斬らせました。今になって後悔しておりますが、甲斐もありません。ここにおりますのはその子の母でございます。別れを悲しむあまりに両目を泣きつぶしまして、御覧の通り今は盲目となっております。あなた様を見ておりますと、どことなくその子に似ておられる。のう、御台よ、このほどお経をあげてくださっておる御僧は、美女御前に少し似ておられるようじゃ。」
「まあ、それはお懐かしいこと。これからは、これといった用事はなくともお立ち寄りになってお経をお聞かせくださいませ。そうすれば心もなぐさみましょう。」
 円覚はこれを聞いて、
「さては自分のふがいなさのために、母上は盲目となられたか。神も仏も私を憎い奴とお思いであろう。悟りへの妨げとなるこの罪こそ口惜しいことよ。」
と涙を流し、

「仏様、仏法の力でもって、どうか母上の目を開かせてください。」
と、お経を唱えながら心を込めて祈りました。すると神仏も不憫に思われ給うたのでしょうか、本尊から金色の光が発せられ、北の方の額を照らしました。 満中がたいそう驚いて、
「のうのう、あれを御覧ぜよ。本尊の御前より金色の光が出ておるぞ。」
と言いますと、北の方はこれを聞いて、
「それはどちらですか。」
と尋ねました。するとどうでしょう、長い間盲目だった両眼が、たちまちに開きました。
 奇跡とは言っても、なかなかこれほどのことはありません。

絵6

    【円覚が念仏を唱えると、
        本尊が光を放ち、盲目の母の目が開く】

 満中夫婦は手を合わせ、
「まことの生き仏でいらっしゃる。」
と、円覚を拝みました。円覚は座を退いてかしこまります。
「これはかたじけないこと。どうしてそのように座を退かれるのですか。」
「はい。お釈迦様が説法をなさった時にも、父上である浄飯王(じょうぼんおう)がいらっしゃると、仏であっても蓮華座を去って敬意を表したと申します。 ましてや私のような卑しい僧はなおさらでございます。」
「これは愚かなことをおっしゃる。それは親子の礼儀でございましょう。我々は他人なのですから、どうして遠慮なさることがありましょうか。」

絵7 「今となっては隠し立てはいたしません。私はあの美女御前でございます。仲光が情けをかけて我が子の幸寿丸を身代わりとし、私の命を助けてくれたのです。今は縁あって、このように恵心僧都のお弟子となっております。」
 満中夫婦は円覚の袖にすがりつき、
「これは夢か、夢ならば覚めないでおくれ。」
これはまことの現実ですから、その喜びはたとえようもありません。満中は、
「こうしたことがあるから、よい家来には特別の恩を与えて召し抱えるのだと、今さらながらに思われることじゃ。中務の情け深さは、一生忘れまい。」
と言って、すぐに仲光夫婦を呼び出しました。
「これを見よ、夫婦の者よ。今からは美女御前を幸寿丸だと思って、後生のことは頼もしく思うがよい。」
 満中夫婦も、仲光夫婦も、円覚に抱きついて喜びの涙を流します。

【円覚にすがりつき涙を流す満中・仲光夫婦】

<自他一如―自他の区別のないこと>

 満中は九万八千町の領地を二つに分け、半分を仲光に与えて治めさせました。 また幸寿丸の菩提を弔うために、小童寺というお寺を建てて、子どもの姿をした文殊菩薩像(稚児菩薩)を作り獅子に乗せて本尊としました。

 そもそも仏教において、過去、現在、未来の三世にある仏たちがこの世に現れた目的は、衆生を救済して悟りの道に導くことにあります。 この悟りを簡略化したのが、六字の「南無阿弥陀仏」の名号です。救いを求めて一心に南無阿弥陀仏と念じることで、正しい悟りの結果の功徳を得ることができるのです。
 思惟というのは、姿勢を正して座り修行する、座禅の無念無想の奥義を言います。 これを天台宗では、妄念を止め、不動の心で諸物の実相を理解する止観で説明し、 真言宗では、不変の真実の理法を悟り、仏の教えの姿を解釈研究する実相教相で説明しています。
 また、法相宗の一切有と三論宗の一切空は、有相、無相の二有の対立的観念に依拠しています。 究極には、実体がない融通無碍の名詮自性(名はそのものの性質を表す、ということ)はこれすべて真理は諸相を超越するということで、 このことを説く法華経の教えに及ぶものはないのです。
 阿弥陀仏も極楽浄土も自分の心の中にあるのであり、声に出して念仏を唱えることが大切です。 阿弥陀仏というのも我々の本来の姿なのですから、我々の心の中にはっきりと感得できるのです。 そして、数多くの仏の名号を念じれば、心も本来の清らかさを取り戻していきます。どうして目に見えるような姿に関係があるでしょうか。 もともと法華宗も念仏宗ももとは同じ法門でした。
 いにしえの仏の伝には
「昔は霊山にあって法華を称し、今西方にあって弥陀と称し、濁世の末代は観音を称す。過去、現在、未来の三世の衆生を利益する仏は同じ仏体である。」
とあります。どうして法華と念仏とを格別に分けて理解する必要があるでしょうか。ただ、生きることも死ぬことも春の夢のようなものなのです。 煩悩が解け去ってあらわれてくる心の本体とは、本来、明白なものです。他人の寿命を借りて、自らの寿命を延ばす。 迷いの中ではすべてが非であり、悟りの境地ではすべてが是なのです。自他の区別などないのです。
 先に死んだ幸寿丸と後で死ぬ美女御前を、分けて考えることができるでしょうか。今はもう名前のみが残るばかりです。
 さて、空也上人の一首の和歌に次のようにあります。
    世の中に独り留まるものあらばもし我かはと身をや頼まん
  (この世に一人とどまる者がいたとしたら、もしや自分ではないかと期待するだろうか、いやしない。)
 東方朔(とうぼうさく)が九千歳、鬱陀羅羅摩子(うつだららまし)が八万歳まで生きたというのも、今は名前だけが残っています。

 満中は弓矢をとって仕える武士でありながら、罪障を懺悔し発心をおこしたので、子孫も繁栄し、 天下を治め、永遠に源家が栄える礎を築くことができたのでした。そしてまた、幸寿丸は義理を重んじ、 自らの命を捨ててまでも後代に名を残したので、今も昔も、また将来においてもこんな例はないと、人々はその類なき心映えを褒め称えたということです。

- 完 -

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