多田源氏
「満中」は源氏の祖として多くの子孫に崇められました。それは摂津国多田の地に家臣団とともに本拠を構え、後世の武士階級の原型をつくったためです。鎌倉、室町、江戸という3つの幕府を成立させ、約700年間にわたって日本に君臨した将軍たちの系譜は、すべて満中にたどり着きます。
満中は古代から続く名門貴族の藤原氏と政治的なつながりを持つことで、中央での地位を確立しました。きっかけとなった安和の変(安和2年=969)は、藤原摂関家がライバルの左大臣源高明を大宰府に追放した事件です。
満中には多くの息子がいました。上から、頼光、頼親、頼信。僧の源賢(この物語では美女御前、円覚、多田法眼とも)は末の息子と考えられます。
長男の「頼光」は父満中の家督を譲られ、多田の地を治めました。坂田金時(絵本でよく知られる金太郎)ら頼光四天王を従えて大江山の酒呑童子を退治したことで知られます。そのとき用いた宝刀「鬼切丸」は、いまも多田神社の宝物殿に納められています。
次男の「頼親」は前後3度も大和守に任ぜられ、大和源氏と称されましたが、しばしば興福寺と紛争を起こしました。あげくのはてには息子の頼房が興福寺の僧侶を殺害したため隠岐に流され、そこで生涯を終えました。
満中の武士としての側面を最も強く受け継いだのは、三男の「頼信」です。兄たちと同じように各地の国司を歴任しましたが、河内守のとき、その地を本拠にしたことから河内源氏と称されました。
河内源氏の末裔である源頼朝は、西国の平氏を打ち破って鎌倉幕府を成立させました。さらに、この家系から室町幕府の足利氏、江戸幕府の徳川氏や甲斐武田氏などが生まれました。
この物語に登場する「美女御前」ですが、出家の後の話として『今昔物語』に、その「源賢」が比叡山の高僧源信の力を借り、満仲(満中)の戦いの日々を諌めるという「摂津守源満仲出家話」のくだりがあります。これまでの荒々しい人生を悔い改めた満中は、武具を焼き捨て、50人の家臣とともに出家するというあらすじです。事実満中は出家しています。
長徳3年(997)に満中は逝去。享年86歳でした。「わが没後、魂をこの院(多田院)にとどめおき、武士の家を護るであろう」と遺言したといいます。
弓矢の名手
満中は、居城を築く土地を定めるため摂津の国・一の宮(大阪市)の住吉神社に願をかけました。すると「汝の矢で北西の方を射よ。その矢のとどまる所を汝の住まいとすべし」とお告げを受けました。満中はさっそく北西の空に向かって白い矢を放ち、家来を引き連れてその行方を追いかけました。
途中で道行く人に「このあたりに白い矢が飛んでこなかったか。」と問いながら萩原の山(今の兵庫県川西市)の近くまで来ると、「この山の向こうにある滝のあたりへ飛んでいったようです。」と教えられ、その鼓ケ滝へ行ってみると、川の流れの中に九つの頭を持った大きな龍が目に白い矢を受けて死んでいました。
満中はお告げのとおりに、この地に居をかまえました。これが多田源氏の発祥となりました。
また途中で矢の行方を問うたあたりには「矢問」(やとう)という地名が残っています。満中の矢で死んだ龍は、「九頭大明神」として川西市東多田の地にまつられ、今でも地元では「クドウさん」と呼ばれ大切にまつられているそうです。
多田神社
兵庫県川西市の多田神社は源氏ゆかりの神様です。摂津守としてこの地に居城を持ち、多田満中とも称した源満仲が御祭神です。清和源氏発祥の地であるだけに多数の文化財があり、広さ1万6000坪という神域そのものが国指定の史跡となっています。
神社の前身は天禄元年(970)に創建された多田院ですが、幾度となく大修復を繰り返し、現存の建物は徳川4代将軍家綱が寄進したものです。源氏祖廟の地として鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の崇敬を集めました。満中をはじめ、頼光、頼信、頼義、義家の五公が祭られています。
その他の多田満中の物語
多田満中の物語には、ここで紹介した絵巻の他に奈良絵本の形式をとったものがあります。
京都大学附属図書館では、「満仲(まんじゅう)」という御伽草子で同様の物語が紹介されています。
またこの物語は能『仲光(なかみつ)』の題材にもなっています。
閉じる