江嶋えじま家け文書もんじょ解説かいせつ

 今治いまばりの江嶋家えじまけは初代為信しょだいためのぶ(1635〜1695年)より始はじまる。為信ためのぶは、生国しょうごくが薩摩さつま、育そだちは日州にっしゅう飫肥おび(現在げんざい宮崎県みやざきけん日南市にちなんし)、寛永かんえい12年ねん、飫肥おび藩はん伊東家いとうけ藩士はんしの江嶋えじま為頼ためよりの三男さんなんとして生うまれるが、故ゆえあって明暦元年めいれきがんねん(1655年)に妻子さいしを残のこして出奔しゅっぽん、浪人ろうにんとして諸国しょこくを放浪ほうろうするうちに江戸えどに落おち着つく。この浪人ろうにん時代じだいに当時とうじ流行りゅうこうしつつあった散文芸さんぶんげい(仮名草子かなぞうしと呼よばれる)を執筆しっぴつし、『身の鏡』『理非鏡』などのロングセラー、いくつかの兵法書へいほうしょを出版しゅっぱんする。
 そして、為信ためのぶは寛文かんぶん8年、34歳さいにして今治藩いまばりはんに採用さいようされることとなる。この間かんの事情じじょうについては不明ふめいであるが、今治いまばり藩士はんし小泉宣安の推挙すいきょにより馬廻役うままわりやくとして100石こくで召めし抱かかえられたのは事実じじつである。以後いご、功績こうせきをあげ、元禄げんろく4年ねん(1691年)に500石こくの家老職かろうしょくにまでのぼりつめた。
 その江戸えど留守居役るすいやく時代じだいに、当時とうじ流行りゅうこうの談林俳諧だんりんはいかいにも遊あそんだ。談林派総帥だんりんはそうすいの西山宗因にしやまそういんに評ひょうを乞こうた『山水さんすい十百韻とっぴゃくいん』は有名ゆうめいである。俳号はいごうは山水さんすい、井原西鶴いはらさいかくが大阪おおさかで催もよおした大矢数おおやかず俳諧はいかい『西鶴さいかく大矢数おおやかず』にも句くが見みえる。そのため、岡西惟中おかにしいちゅうや大淀三千風おおよどみちかぜが今治いまばりの為信ためのぶのもとを訪おとずれている。今治いまばりを、いや愛媛えひめを代表だいひょうする文人ぶんじんであった。
 また、産業界さんぎょうかいの面めんでは、甘藷かんしょ(サツマイモ)を今治いまばりにもたらしたのが為信ためのぶと言いわれているが、その詳細しょうさいは不明ふめいである。
 為信ためのぶは元禄げんろく8年ねんに江戸えどで61歳さいで逝去せいきょ。墓はかは江戸えどの芝しば新銭座しんせんざにあったとされるが不明ふめい。今治いまばりの海禅寺かいぜんじには遺髪塚いはつづかが遺のこされ、江嶋家えじまけ一門いちもんの墓はかがある。

 その江嶋家えじまけは明治めいじにいたるまで今治いまばりにあり、今いまもその一族いちぞくがお住すみではあるが、江嶋家えじまけの文書もんじょは明治期めいじきに一度いちど今治いまばりで展覧てんらんされて以来いらい、長ながらく愛媛えひめの地ちにはなかった。とかく伝でんの不明ふめいのことの多おおい仮名かな草子ぞうし作者さくしゃのなかで江嶋えじま為信ためのぶの例れいは貴重きちょうであると同時どうじに、今治藩いまばりはんの家老かろう職しょくを務つとめた家いえの資料しりょうだけあって、かつての今治いまばりの姿すがたを知しる一級いっきゅう資料しりょうである。その江嶋家えじまけ文書もんじょが長ながらく江嶋家えじまけの御子孫ごしそんの手元てもとにあり、流失りゅうしつは認みとめられるものの、運良うんよく災禍さいかを免のがれていることが判明はんめいしたため、平成へいせい13年ねん7月がつ、愛媛えひめ大学だいがく附属ふぞく図書館としょかんデジタル・コンテンツ研究会けんきゅうかいの活動かつどうの一環いっかんとして、愛媛えひめ大学だいがく附属ふぞく図書館としょかんに寄託きたくされることとなった。為信ためのぶの自筆じひつ、系図けいずから今治いまばりの行政ぎょうせい資料しりょうまでも含ふくむ価値かちある文書もんじょであり、今後こんごの活用かつようが期待きたいされる。

 

【参考】
 �@真木虎雄 『江島為信年譜』『江嶋家譜』『江嶋氏系図』
 �A星加宗一 「俳人江嶋山水について」(昭和32年「愛媛の文化」第30号)
 �B松田修 「日州漂泊野人の生涯」(昭和38年「日本近世文学の成立」)
 �C岩波新古典文学大系 「仮名草子集」
 �D管 宗次編集・武蔵川女子大学国文研究室 「江嶋家文書目録」(平成11年)